粉骨作業中は「無」になることを心がける

粉骨作業をしているとき、故人の人生について想像してしまいそうになることがあります。お客様から詳細な情報をお聞きすることはありませんので何の手掛かりもないのですが、やはりご遺骨と向き合っていると故人に何かしらの想いが生じるものです。私は無神論・無宗教ですので霊的なものを感じることはありませんが、ご遺骨から故人の生前を感じてしまうのは人情というものでしょうか。

ただ、そんな時私は作業に集中し、余計な感情を入れないようにします。それは私の感情が入り込むことが望ましくないことだと感じるからです。ご遺族の故人への想いはさまざまで宗教観や死生観も異なります。また、故人とともに過ごされた時間のある方と、単に粉骨をご依頼いただいている私とでは個人を尊ぶ気持ちは比べものにならないでしょう。そんな私の感情が関わることが良くないことだと感じるのです。

昔、祖母が他界した際の葬式で、お坊さんが長い念仏のあと説教をされました。話の詳細はもう覚えていませんが、確か「幸福」に関することが話されていたように思います。若かった私はその話の内容に強い反発を感じました。祖母の人生について何も知らない人が勝手な解釈を押付けているようで反発を感じたのです。相手はお坊さんですのでそのような話をする資格はあるのでしょうし、こちらが依頼して来てもらっているのですから私が怒るのも理不尽なことでしょう。しかし、祖母の人生に照らすと説教の内容はあまりにも的外れだと感じ、立ち上がって抗議したい衝動に駆られるほどでした。当時の私にもその説教がいくつかの定型的な説教から選ばれたものであることはわかってはいたのですが。

もちろん、そのように感じたのは私の宗教観などにも原因があるのでしょう。あるいは、祖母への思い入れからきていたのかもしれません。

誰かを大切に思う気持ち、その内容は人それぞれだと思います。もちろん同じ人として共感できるものがあるとしても、たとえば「愛」という言葉で表現される中身は人によって大きく異なるのだろうと感じます。「哀しみ」もそうでしょう。歳を重ねていくほど、愛や哀しみのような感情は容易に共有・共感できないものなのではないかという想いが、個人的には強くなっているのです。

だから私は、粉骨作業中「無」になろうとします。それは別に宗教の教えにあるような悟りの類ではなく、目の前の作業にだけ集中し、自分個人の感情を浮上させないようにするということです。ご遺骨に敬意を払いながらも私の感情を込めないように意識しています。

故人への想いは、その人を本当に想うご遺族だけのものです。当たり前のことですが。