祈るということ。INORI(いのり)の意味。

今日は、粉骨や散骨に関しての知識ではなく、「祈り」とはなんだろうか、祈るということにはどんな意味があるのか、ということについて抱いている個人的な考えを書こうと思います。とはいえ、「考え」といえるほどのまとまった内容にはなりそうにもありません。

 

弊社のサービス屋号は「散骨粉骨代行サービスのINORI」で「祈り」という言葉が入っています。祈りというと宗教的なものを思い浮かべる方も多いでしょうし、実際多くの宗教では祈りが重要な意味を持っています。しかし、弊社はいかなる宗教・信仰とも関わりがありませんので、屋号に入っているINORI(祈り)も宗教的な意味のものではありません。表記がINORIとなっているのも宗教的な意味で使われることの多い「祈り」と距離を置いているからです。弊社の屋号で使っているINORI(祈り)はもっと広い意味でのものだといえます。

デジタル大辞泉によると「祈る」には、「神や仏に請い願う。神仏に祈願する。」という意味と、「心から望む。願う。」という意味の2つが記されています。

弊社はご遺骨をお預かりする立場であり、ご遺族の「祈り」を受けて作業をさせていただいているので、「INORI」はご依頼いただくお客様のものです。したがって、その祈りには宗教的な意味がある場合もあるでしょうし、そうではないこともあるでしょう。辞書における2つの意味のどちらというわけではなくその両方の意味を含むものとしてINORIと表記させていただいていると説明した方が良いかもしれません。

 

宗教的には「祈る」という行為にはさまざまな意味が与えられています。それは宗教によって、また宗派によっても異なるものです。ここでは各宗教・宗派における「祈り」について深入りすることはしません。ただ、「神や仏に請い願う」という場合、そこに嘘はないはず(あってはならないはず)でしょう。一方、宗教的な意味を与えられていない「祈り」に関しても、辞書では「心から」望む、願う、と示されています。やはりそこには嘘のないものが想定されています。嘘偽りのない想い・行為というものは、神や仏と関連づけられていないものであっても、それはやはり「神聖」なものとして、同じ「祈る」という事が用いられるのだろうと思います。

宗教的な「祈り」においては、ほとんどの場合、それが現世のものか来世のものかは別にして、祈りの結果としての作用がもたらされることが想定されています。一方、宗教的な意味をもたない「祈り」、何かに帰依するわけではない「祈り」に意味はないのでしょうか。「祈り」はそれぞれの人の精神の中、内心にあるものであって、それが外界に作用をもたらすものではありません。たとえば、日常的に使う「いってらっしゃい」という言葉の中には、そもそも「無事で帰ってきてほしい」という願いが含まれています。しかし、「いってらっしゃい」という言葉によって送り出す人が何かのパワーに守られるという風に考えている人はあまりいないでしょう。観念が直接物理的な世界に作用するわけではないからです(異論のある人はいるでしょう)。

草原に1本だけ立ってる木の画像
Photo credit: fireboat895 on Visual Hunt / CC BY 

では、宗教的な意味を付与されていない「祈り」には意味がないのかといえば、私はそうは思いません。先ほどの「いってらっしゃい」という言葉を発する時に、「祈り」と呼べるような心からの願いが込められていることがあり、その祈りにはやはり意味があると思うのです。

「祈り」には嘘偽りのない心からの願いが込められています。その観念が直接物理的な世界に作用を及ぼすことはないとしても、「祈る」人には強い影響を与えます。心から願うことによって行動は変化し、その願いを叶える方向に人を動かします。たとえば、送り出した誰かを強く心に留めておくことが、その誰かの無事にプラスになるような行動につながります。無事に帰って来るまでは気に留めて待っているということが、異変に対する素早い対応につながることもあるでしょう。あるいは、送り出された人が「いってらっしゃい」の中にある「祈り」を感じとって、自分を大切にしてくれることもあるのではないでしょうか。

 

では、亡くなった人のために祈ることにはどのような意味があるのでしょうか。宗教に帰依している人であれば、そこには特別な意味があるでしょう。しかし、確たる信仰のない人が亡くなった人のために「祈る」ことの意味はなんでしょうか。霊的なものを信じない人が亡くなった人を想って祈ることは、まったく意味がないこと、あるいは矛盾した行為なのでしょうか。

私はそうは思いません。心の中にいる故人を想い、その人が「安らかであってほしい」と祈ることは、とても神聖なものだと思います。それは故人の想いを思い起こし、感じながら生きるということです。たとえば、祈りを通じて故人が自分を気にかけてくれていたことを感じとれば、傷ついた心を抱えながらも自分を大切にするという生き方を選ぶことができることもあるでしょう。「祈る」ということ、嘘偽りのない心からの願いには、やはり何かの意味があるのではないかと思います。もっと言えば、故人のために祈るということは、心の中にその人を生かし続けることだと言えるかもしれません。

 

世の中の現実には理不尽なことが溢れていて、無力を感じることも多いものです。親しい方が亡くなった時に、立派な葬儀やお墓で弔いたくてもそうできないこともあるでしょう。納骨後にお墓に出向くことが困難な場合もあります。また存命の方との関係でも、してあげたいことを十分にしてあげられないこともあるでしょう。

しかし、たとえば病床に臥せっていても、あるいはお金がなくても、心が壊れかかっていたとしても、祈ることはできます。どんなに世界が理不尽で残酷であっても、どんな状況に追い詰められたとしても、人間から「祈る」ということを奪うことはできません。そしてそれは心の中に火を灯し、我々の生き方を左右する、私はそう思います。

 

ご遺骨をお預かりして粉骨をする際、私は自分を無にするように心がけています。ご依頼いただいた方の想いこそが大切であり、私のさしでがましい想いがそこに加わらないようにしているのです。ただ、やはりそこには「祈り」もあります。それが何なのかを考えていましたが、それはご依頼いただいたお客様に対するものなのではないかと思うようになりました。私が抱えることができる想いはそれだけのものですが、それでもなお、嘘偽りのない願いをもって作業させていただきたいと考えています。