散骨の歴史 ~かつて日本では散骨は珍しくなかった~
散骨という葬送の方法は多くの人が知るところとなっていますが、現時点ではまだまだ主要な葬送の方法とはいえません。そのため、比較的新しい葬送方法だと考えられがちです。しかし、散骨という葬送の方法は最近始まったものではなく、日本でも思いのほか昔から行われていました。ここでは、日本における散骨の歴史について見ていきましょう。
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≪目次≫
平安時代に散骨を選んだ淳和天皇
日本における散骨の歴史は意外と古く、平安時代の歴史書『続日本後紀 巻第九』1には、840年に崩御した淳和天皇(上皇)は生前自ら散骨を命じたと記録されています。淳和天皇(上皇)の命により遺体は火葬された上、大原野の西山(京都府京都市西京区大原野南春日町)の山頂で散骨されたとなっています。
もっとも、日本で初めて散骨されたのが淳和天皇であるというわけではありません。たとえば、同じ『続日本後紀 巻第九』の中には、淳和天皇の近臣である中納言藤原吉野が、散骨を思いとどまってもらうように諫めた記録も残っており、そこには「親王以下であれば散骨の例もあるが帝王に関してはそのようなことは聞いたことはなく山稜を築くべきだ」といった趣旨で説得を試みたようです2。つまり藤原吉野の進言では、親王以下の位のものや庶民であれば散骨も行われてきたことが前提となっており、天皇はともかく一般に散骨を行うことがさほど珍しくなかったことをうかがわせるのです。
万葉集に残る美しい散骨の歌
他に古くから日本で散骨が行われていたことを示すものに、万葉集の中の和歌があります。「玉梓能 妹者珠氈 足氷木乃 清山邊 蒔散(玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる)」「玉梓之 妹者花可毛 足日木乃 此山影尓 麻氣者失留(玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる)」3という読人不知歌(よみひとしらずのうた)は、妻の遺骨を散骨した際の心情が美しく詠まれています。
ここでは、「愛しい妻は玉になったのだろうか、花になったのだろうか、清い山・山陰に撒いたら消え散っていく」といった意味のことが歌われており、妻の遺骨(遺灰)が美しい宝石や花に例えられ、山の自然の一部となっていくことへの寂しさとともに妻への愛が表現されています。自分の大切な妻の遺骨を山に散骨することへの作者の心情を考えさせられるとともに、散骨が身近な葬送方法であったことも推測させるものです。
檀家制度により散骨はマイナーな存在に
このような散骨がマイナーな存在となっていったのは、江戸幕府の宗教統制政策として行われた檀家制度によるものが大きいと考えられます。檀家制度によって葬祭供養の一切はそれぞれが属する寺院が執り行うものとなり、常日頃からの参拝や法要などが義務化され寺院の権限が強化される中で、石造りのお墓に納骨をするという方式が定着していきました。お盆やお彼岸その他の法要などの行事が確立していったのも、この檀家制度によるものです。
また、近現代においては、刑法の死体遺棄罪や墓埋法によって遺骨はお墓に納骨するのが常識だという考えを後押しした面もあるでしょう。しかしながら、これらの法律が定められた明治から昭和にかけては散骨という葬送方法は非常にマイナーな存在であったため、法律制定時には散骨を想定していなかったと一般には考えられています。
見直されている散骨
現代では自然に還る葬送方法として散骨が改めて認知されてきています。また、適切な方法で行うのであれば散骨が法に触れることもありません(参照:散骨をする前におさえておくべき法律や条例の知識(2017.12最新))。
死生観や遺骨に対する考え方、追悼の方法への想いなどは時代制約的なもので、その時代における様々な制度や主流となっている考え方の影響を大きく受けます。江戸時代以来の納骨の考え方などの影響はいまだに大きく、散骨という葬送方法を受け入れがたいと感じる人がいることも事実でしょう。しかし、一方で自分自身や身近な人々について散骨するかどうかはともかく、散骨を許容する考えが急激に広まってきているのも事実です。
日本では元来散骨を忌避するような考え方はありませんでした。大きな墓を設けることをよしとせず散骨を望んだ淳和天皇や、愛する人の遺骨を散骨したときの心情を美しく歌う和歌の詠み人の想いを考えたとき、散骨を自然な葬送方法として受け入れることは決して難しいことではないように感じられてきます。
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京都大学附属図書館所蔵 平松文庫 『続日本後紀』 [v.09,18/42]【京都大学電子図書館 貴重資料画像】
「奉葬後太上天皇於山城國乙訓郡物集村。御骨碎粉。奉散大原野西山嶺上。」 ↩ -
京都大学附属図書館所蔵 平松文庫 『続日本後紀』 [v.09,15/42]【京都大学電子図書館 貴重資料画像】
「中納言藤原朝臣吉野奏言。昔宇治稚彦皇子者。我朝之賢明也。此皇子遺教。自使散骨。後世效之。然是親王之事。而非帝王之迹。我國自上古。不起山陵。所未聞也。」 ↩ - 万葉集/第七巻【Wikisource】 ↩
誰もが安価に選択できる葬送の方法を模索中です。また法律・条例や社会的ルールが向かうべき方向についても日々勉強しています。